空手道一直線

2008年12月10日 (水)

阿部求君 全国大会へ 第2回

阿部求選手 国体空手5位入賞

Karate141  9月から10月まで大分県を主会場に行われていた国民体育大会(国体)の空手道競技に出場していた阿部求選手(恵庭南-七飯中出身 阿部久クリニック事務主任の息子さん)は、準々決勝まですすみ5位入賞を果たしました。種目は少年男子形で国体には今回から加わった種目です(これまでは成人と一緒に行われていた)。

 これは都道府県代表でなくブロック(関東、東北など)選出のため最初から少なく、20名の選手が1、2回戦指定形、3回戦以降自由形で争うトーナメント形式。初戦シードの阿部選手は2回戦目から出場し北陸代表の石王丸拳成選手を第2指定形の燕飛(エンピ)で3対0と退け、準々決勝へすすみました。準々決勝は関東地区代表の大木選手。大木選手は優勝候補といわれ、激戦の関東地区を勝ちぬいた強豪選手です。

 阿部選手はこれまで各種道大会決勝で使ってきた得意形、雲手(ウンスー)をくり出すものの、及ばず0対3で破れ5位決定となりました。

阿部求君 全国大会へ 第1回

高体連空手道大会で阿部 求君が優勝し全国へ

Karate131  08年6月12、13日、釧路町総合体育館で高体連空手道大会が行われました。春の選抜道予選で男子個人形準優勝だった阿部求選手(写真 稜北クリニック事務主任 阿部久さんの息子さん)は、雪辱を果たし優勝の栄冠に輝きました。また、所属の恵庭南高校は男子個人形、組手、団体組手、女子個人形、組手、団体組手の6種目優勝の完全優勝となりました。同校は昨年、恵庭市で同大会が開かれたためそれに向けた強化策を数年かけ行ってきましたが、その成果が今年の成績にもつながり2年連続2度目の完全優勝(大会初)を成し遂げました。

 8月埼玉県で行われる高校総体=インターハイでは昨年男子団体組手5位と北海道勢初のベスト8入りの実績から活躍が期待されています。個人形の阿部求選手は春の選抜全国大会では1回戦負けを喫していることから初戦突破が課題となります。

空手道一直線 第12回

息子が晴れて全国の高校空手選抜大会へ

 甲子園だけが「選抜」ではないぞ。空手道予選で準優勝、全国へコマをすすめた私の息子、求(もとむ)の話をさせていただきます。日頃、光のあたらないマイナースポーツ。その名誉挽回に、との思いで親ばかを承知で書かせていただきました。

 高校の「選抜」といえば俳句の季語にもなる「春の甲子園」といわれるように、野球が有名です。しかし、高校スポーツの大半に選抜大会があることはあまり知られていません。今年は長野県を中心に多くの種目が行われます。そのため各地で秋から新人戦、選抜道予選といった名称で大会が行われてきました。

 1月13、14日、札幌で北海道高等学校空手道選抜大会が行われました。この大会は全国高等学校空手道選抜大会北海道予選となっており、ここで上位2名は3月に長野県で行われる全国大会へすすむこととなります。

 一昨年七飯中学校を卒業後、自宅から260キロ離れた空手強豪高といわれる恵庭南高校に進学。昨年の選抜道予選、インターハイ道予選ではベスト8の壁に阻まれてきましたが、今回個人形種目で準優勝となりました。

 恵庭南高校としては、団体戦で男子組手・形ともに準優勝、女子は組手・形ともに優勝、個人戦では男子組手優勝、形準優勝(阿部求)女子組手優勝、形優勝となり、全国へとコマをすすめることになりました。昨年のインターハイで北海道勢として初の入賞(5位)実績から全国での活躍も期待されています。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第11回

シゴキで空手部は廃部に

 当然、待っていたのは退部に対する制裁=シゴキです。何人もの先輩達を相手にした「最後の練習」が行われました。

 翌日、私は生まれて初めての入院を経験することになりました。行った江別市立病院の先生は驚いて即警察に通報、道新にも大きく載るはめになりました。先にも言ったようにその頃いろんな大学でのシゴキ事件が発生していましたので「道内の大学でも」とばかりマスコミが取り上げたのでした。

 酪農大学空手部は当然「廃部」、先輩達も処分を食らうという事態になり、私の空手人生に幕がかけられてしまったのでした。私の戦績は全道大会で大学・一般個人形で、あのあこがれのセンターコートに1回立っただけて終わりました。

Karate111_2  長い間私の空手談義におつきあいいただきありがとうございました。大学空手で私の空手人生は絶たれるのですが、その時はまだ初段。その後どうやって現在にいたったかという話はまた別な機会に譲りたいと思います。

 とにかく空手は素晴らしい武道であり人生をかけるのに値するものと確信しています。ぜひみなさんも純白の道着に袖を通して道場に行ってみませんか?

(写真:八雲ユ医院の職員からいただいた黒帯)

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第10回

大学の空手部は「わけのわからないところ」

 空手部では人を殴ったり蹴ったりすることを日々練習しているわけですから、ちょっとヤキを入れるといっても半端ではありません。下手をすると「殺してしまう」ことがあり得るのです。

 実際、拓大では部員をシゴキで死亡させ、空手部は永久廃部となっていました。このほかにも強豪校の何校かがそんな問題をおこし活動停止や試合出場禁止の処分が出る事態が生まれていました。空手部以外にも応援団や山岳部でも同様なシゴキやいじめによる被害者を出し社会問題化にもなっていました。

 入部した酪農大学空手部は 「とにかくわけがわからない」というところでした。「日曜日集まれ」といわれ集まってみると、練習ではなく祭りの御輿担ぎのアルバイトであったり、「ちょっとランニング」といわれてどこまで走るのかもわからずとにかく走ったら札幌市内までいってしまったり、夏合宿だといわれどこに行くかも知らされず、バスに乗せられついたところが、浜益村(道南勤医協本部にいた川村さんの故郷、現石狩市浜益区)で、海に沈められて本当に殺す気かという思いをさせられたり・・・というわけです。

 4年神様、3年天皇、2年平民、1年奴隷という古い大学部活そのものというか、それを悪のりして悪化させたような状態でした。邪推するとアルバイト代などは貰ったことはありませんから、その金は先輩の飲み代になったのかなと思われます。無邪気といえば無邪気、しかしまじめに考えると犯罪とも言えるものでした。

Karate101  高校時代、地域で年齢の違う仲間と空手を楽しんでいたこと、北大水産学部で知った自由な部活。そこから抱いていた、大学の部活は科学的な理論に基づくトレーニング、アカデミックで自由な練習環境、先輩後輩の関係があっても強い者が大会に出るといったイメージが一気に崩れ、大学空手に嫌気がさして我慢できなくなり秋には退部を申し出ました。

(写真:空手一家です 私の向かって右が長男の究、左が次男の求)

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第9回

保守的な大学空手部

 さて、酪農大学空手部は全道大会で優勝者を出すなど強豪校のイメージがありましたが入ってみると大違いで、4年生が3人(うち1人は短大を2回留年しての4年生)、3年生が2人、2年生が0という弱小部活になっていました。1年生は素人のみで5人が入部していました。大学空手はやはり経験があるのとないのでは大違いで、拳の握りかた、突きの出しから、蹴りで片足で立つことなど一から覚えていくのと、すでにできていて試合経験もあるのではスタートに大きく差が出てしまいます。

 私と一緒に入学した1年生には空手経験者が数名いたのですが、流派が違っていたり少林寺拳法や日本拳法にすすんだり、また「高校であんなに苦しい思いをしたのに大学でも空手なんてとんでもない」という理由で誰も入部しませんでした。

 当時の大学の部活は変な風潮というか、一旦弱まりかかった保守的な縦社会的部活が一気に復活するような状況でした。漫画では「ああ花の応援団」や「押忍!空手部」という反動的なものが流行っていました。高校空手部でも先輩後輩関係は厳しいものでしたが、大学ではそれが異常な程でした。「学食であいさつしなかった」といっては殴られ、「その顔つきが悪い」といっては蹴られるという部活です。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第8回

当時の酪農大生の共通点は金がないこと

 大学に行けるのが嬉しく、入学式の1週間前から下宿に行き野幌の街を探検したり、大学構内をほっつき歩いたりしていました。

 74年入学ですから、70年安保の名残や初の乳価闘争があり、ベトナム戦争の終結1年前のことでした。

 入学式には国道から狭き門(本当の名称です)をくぐって校舎に向かって登って行くのですが、チラシ撒きの嵐。ハンドマイク合戦も激しく何を言っているのか分かりません。政治団体、文化サークル、体育会、そして後で私が深く関わる、農ゼミ組織がとぐろを巻いて新入生を待ちかまえていました。

 当時の学生はみんな学生服を着ていました。高校と同じです。私はせっかく大学に入ったのだからとブレザーを着ていきました。入学式(入学礼拝といった)が終わって、副担任と思われる先生から「ここは酪農大学だ。ブレザーなんて着てくる必要はない」と一喝されました。

 酪農大学は農家子弟の教育を前提に創られ運営されていた学園ですから、質素を旨として学費も私が卒業した時は国立より安いという状況でした。したがって、農家の貧しい息子達(女子は一割以下)、一旦社会に出て金を貯めてから入学してくる者(函館診療所の鳥井師長の夫もその一人)、また北海道にあこがれを持ってくる者(タレントの田中義剛ら)など雑多な集団で道外勢が八割でした。共通点は金がないということでした。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第7回

74年、念願の酪農大学に

 それはそれで勉強にはなったのですが、自分の練習にならないと練習場所を求めて、自宅の近くの北大水産学部の体育館を訪ねました。

 北大は流派が違い和道流という空手をしていました。ここでは、部員が思い思いの時間にやってきて、それぞれ決まったメニューをこなして帰るという方式です。一応時間になると作法があり、準備体操、整理体操があるのですが、高校の練習のように号令をかけ一挙一足みんなでそろえてやるものとは大違いでした。また、私のような他流派の高校生も「勝手に練習していけ」という雰囲気で大変勉強になったのを覚えています。こうした地域で年上の初心者に指導したこと、北大水産学部の空手部の練習雰囲気を知ったことが後で大変なことに繋がるのでした。

 大学は酪農大学です。私は中学の時から酪農大学にあこがれ進学を希望していました。そのため高校は野幌機農高校(現酪農大学付属高校)に行きたかったのですが経済的な問題もあり高校は大農にしていました。

 74年やっと念願の酪農大学に入りました。パンフレットで見る酪農大学の校舎は、煉瓦造りに塔があり、そこには教会にあるような鐘が吊されていたのですがそれは本館であって、学生の学ぶ教室は木造の古いものでした。

 まだ4年生大学が開学して20年程度でしたから、どうしてこんなに古いのかと思っていたら、どこかの小学校が廃校になったものを移築してきたものということでした。酪農学園の歴史は古く酪農義塾として農家の子弟の教育をはじめたところから始まりました。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第6回

「ヒサッシ、オメェ基本でも教えでおけ」

 私が2年になる時、大農から新潟大学に学び、母校の教師となって空手部を育て上げ、日本空手協会函館支部の支部長もされていた、紺谷先生が「北海道開拓の村」の学芸員として転出してしまいました。

 そのため空手をまったく知らない英語の先生が顧問となっていましたのでどうも力が入りません。大会に2チームだそうと提案しても予算がないのでダメ。強化練習をさらに行ってといってもあまりいい顔をしません。とにかく自分たちだけで頑張って行こうということで頑張りましたが、なにぶん指導者が校内にいないので、外に指導を仰ぐことが多くなりました。

 その当時、巷では一種の空手ブームがおこりつつある頃で函館支部の練習に行くと毎回新しい青年が見学や体験に来ていました。先輩である大農卒業生は自分が大会へむけた練習をしたいので、新しくきた者に「ヒサッシ、オメェ基本でも教えでおけ」というわけで、自分より10才は年上ではないかと思われる青年男女に指導するはめになりました。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第5回

3年生で全道4位

 団体戦は3人1組です。私が2年の時、3年生が不祥事で出場できなくなり、2年生が組手に1人、形にも1人、メンバーに加わりました。大農空手部はいつも3年生はこの団体戦メンバーの3名しか残らないのが「伝統」でした。戦績は2回戦程度で全道の壁にはじき返されたような気がします。

 翌3年生で迎えた全道大会は、前回大会を経験している2人と私でチームを作りました。私を除く2人は春の昇段審査で初段合格まではいかないものの「仮初段」ということで黒帯を締めることが許されていました。私は2級で茶帯でした。

 形には自信を持って臨んだのですが、思ったほど点数がのびず、メダルに手が届きません(1桁順位だと思いますが)。組手は私が先鋒、M君が中堅、大将が後に函館支部指導部長となり北海道代表で日本武道館まで行ったK君でした。戦績は私の2勝3敗。つまり5回戦まで戦ったということです。

 結果は4位でした。この4位は未だに破られていない大農の最高戦績だと思います。優勝校と同じだけ試合数をこなして何ももらえないのが4位です。大会も開会時にあれだけいた、選手や観客がいなくなり、4校関係者だけが残って騒いでいるという状況です。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第4回

道南は3校で争い、すぐ全道大会

 当時、空手は国体種目になく高体連種目にもありませんでした。各流派が独自に大会を開く程度のものでした。しかし私の所属している日本空手協会はすでに世界大会を開く程の大きな組織力を持っていました。

 道南の高校では大農の他に、西高と有斗高が協会に加盟して道南大会はこの3校で行われていました。3校ですからすぐに全道大会です。幸いなことに2年生の時から補欠で全道大会に行くことができました。

 全道大会は当時札幌市内で一番大きな体育館の中島スポーツセンター(現在は取り壊されその敷地に中島体育センターがあります)で行われていました。会場は日本空手協会の大会の特徴となっている5コート制で、センターコートと呼ばれるコートは体育館中央に約1メートル積み上げたリングのようになっているのです。後の4コートは体育館の床に作られているのですが、センターコートだけは特別なのです。そこでは主に決勝戦が行われるところで特別に見やすくなっています。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第3回

函館市長じきじきの空手指導

 空手の帯は流派や道場ごとに違いはありますが、最初は白、次ぎに緑、紫、茶となり段に挑戦して合格すれば黒帯となります。現在では子ども達には励みになるように、緑の下に黄色、水色を加えたりしています。

 私が初めて色帯になったのは1年生の3学期だったと思います。先輩方は入部が遅いので心配してくれましたがどうにか緑帯を締めることができました。その時の級審査は自衛隊の講堂で行われました。審査長は北海道本部の中孝先生。審査委員には当時の函館市長の矢野康先生、大農顧問の紺谷4段、大農空手部1期生の木村3段といった先生方だったと思います。道本部の中先生は夕張の高校の教師をされており、北海道空手界の黎明期を担った全国的にも名の知られた先生です。

 もうひとかたの矢野先生ですが、私はただ市長が見学がてらいらしたのかなと思ったら、法政大学空手部出身で6段という当時北海道では最高位をもつ方でした。最初背広を着て審査席に座って見ておられましたが、審査が全部終わって結果が出るまでの休憩時間に蹴りが悪いといって、背広、靴、靴下を脱いで特別に稽古をつけてくれました。その足の分厚いのを見て驚いたものでした。何しろ蹴りが悪いといわれたのは私で、私の目の前に何度も矢野先生の足が飛んできたのですから。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第2回

高校時代は一番のボロ道着

Karate21  当時の大農(大野農業高)空手部は紺谷四段という雲の上のような先生がいて大変強い部活でした。私が在籍した3年間で、函館地区の大会では一度も団体戦で負けたことがありませんでした。

(写真:子供の練習の指導にあたる私)

 当時の練習は厳しく、実習などで遅れると、3年生から命じられた2年生が迎えに来るとか、掃除当番に当たっていても、先輩が迎えに来ると同級生たちも文句も言えないという状況でした。。

 空手の練習は多い時は朝練、昼休みに道場の掃除といって道場に集まり、放課後1年生は全寮制でしたので5時まで。しかし、寮での夕食が済むとまた2年生が迎えに来て舎監の先生に届けを出して道場に戻るという状況でした。いつものことではありませんでしたが。

 2年になって寮を出ると当時高校ではバイク通学が認められていましたので、学校での練習が終わると荷台に空手道着を縛り付け帯をなびかせて、日本空手協会函館支部の道場へと向かいます。学生服に道着を帯で結んで肩から掛けて歩くのがカッコ良く思えたんですね。青年センター、旧上磯公民館、慰霊堂、旧函商業体育館(今の美術館あたり)、有斗高校などに出かけました。

 部活では上下関係も厳しく、先輩の言うことは絶対でしたから、他校の上級生に勝つことが一種のストレス解消で、試合や練習ではムキになって向かっていたような気がします。当時大農の2年はY高の3年と同じ実力、1年はN高の3年と同じ実力と言われ喜んでいました。

 空手をする上で道具はなにもいりません。空手道着や帯は部室ある物を来た順にとりあうというものでした。3年生は個人の物を持っていましたが、それ以下は道場にぶら下げてある物を使うわけです。それぞれにお気に入りのものがあり、それを着るためには早く道場につかなくてはなりませんでした。今、考えると衛生的ではありませんね。

 私は遅れて入部したのと、人と争っていい道着着たいという欲がないせいか、誰も着ない一番ボロの道着を確保していました。その一番のボロ道着を寮に持って帰り、ワイシャツや白衣の白い端布で繕ってマイ道着としていました。しかしその修繕が結構うまくいくとそれも誰かにとられてしまい悔しい思いをしたこともあります。私が本当のマイ道着を持ったのは3年生の初段挑戦の頃だと思います。
(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)

空手道一直線 第1回

 いかぽっ報には職員からの投稿も多数よせられます。職員も、医師に負けず劣らず、多彩な趣味の持ち主が多いのも、わが函館稜北病院のディープな(奥の深い)ところです。

 職員の投稿より、一番手として阿部久さんを紹介します。稜北内科小児科クリニック事務主任の阿部さんは、一見ごくふつうのおじさんですが、実は空手の高段者。教え子の息子さんも最後に登場しますので、ぜひお読みください。

 シリーズ「空手道一直線」は、2007年2月(第5号)から2008年2月(第22号)まで12回にわたって掲載されました。息子さんはその続編として第39号、第49号に登場します。つづけて掲載します。

小学校時代は小児喘息で、体育授業を見学

Karate11  日本空手協会五段、B級指導員、C級審査員、B級審判員ともなれば相当な猛者を思い浮かべられると思いますが、身長160㎝にも充たない中年小男、それが私です。

(写真:指導員として子供らと01年に初の全国大会出場)

 小学校卒業以来同窓会なるものが一回も開かれていませんので、小学校時代の友人と会う機会がないので驚かれませんが、きっと私が前記のような資格を持っているとみんなびっくり仰天をするのではないかと思います。

 なぜかと言えば、小学校時代から背が低く痩せており、おまけに小児喘息という厄介な病気のため高学年の冬場は毎年体育の授業は見学。また長い時には週単位で学校を休んでいたからです。このころ「将来何になりたい」と聞かれると「○○になりたい」という答えを持っていませんでしたが「病院関係には絶対に勤めたくない」と答えていたような気がします。

 そんな私が空手と出会ったのは高校に進学してからですが、中学2年の時、一念発起してサッカー部に入りました。当時の港中学校はサッカーが強くあこがれたのと、このまま弱い身体では、と思ったからでした。練習前のランニングにもなかなかついていけず、時折ぜんそく発作を起こしながらもどうにか3年の終わりまで退部しないで補欠をつとめあげることができました。

 そんなことを少しの自信にして高校に行ったのですが、高校は農業高校だったため、スコップやカマを手にした「実習」が多く、ついていくのが大変で、空手部に入ったのは夏休みが終わり高校生活に慣れた2学期からでした。

(阿部久さん:稜北内科小児科クリニック 事務主任)